大人になってから、信頼できる友達を見つけるのは難しい

さいきんふと思ったので、ブログに残しておきたい。

大人になってから、新しく心を許せる友達を作ることが難しいな、と感じる。私が特別、友達と考えるひとに求めるものが多いのかもしれないし、ほかのひとはこんなふうに考えはしないかもしれないけれど。

友達の定義

高校一年間すごしたクラスメイトの男の子に、ふと「俺のことなんだと思ってるの?」と聞かれたときに「クラスメイト」と答えたら、「一年過ごしたのにクラスメイト?俺は友達くらいになれたと思ってたのに」と笑いながら言われたのを思い出す。

私の中で、友達は本当に、両指に収まるほどしかいない。友達という言葉が持つ重みが、ひとと違うからだ。その中でも、なんでも話せると思える友達は、さらに少ない。みんな、学生時代からとても長い間時間を一緒に過ごしてきたひとで、よくお互いを知っていて、歴代の彼氏の顔と名前もほとんど覚えているくらいのひとたちだ。そして、苦しいときも、悲しいときも、楽しいときも、一緒に感情をシェアしてきた。一生大切にしたいと思える存在だし、私に何を言われてもどうでもいいけれど、彼女たちになにか悪いことをするひとたちは、私は許せないと思うような、そんな友達。

彼女たちとわたしの価値観は、きわめて似ていて、そして言葉の使い方や、その言葉が持つ重みの理解も共通している。ひとを傷つけるようなことは当たり前だけど言わないし、なにより彼女たちは私が間違ってくれると正してくれるし、私も何か間違っていると感じたら、毀損なく指摘することができる。そしてそれを、受け入れることができる。なぜなら、彼女たちを信頼しているから。

そんな私の友達のラインがとてもハードルが高いものだということを記した上で、なぜ大人になってから友達を見つけることが難しいのか、ふたつの側面から紐解いて行きたい。

なぜ友達を見つけるのが難しいのか

大人になると、価値観が同じ人を見つけるのが非常に難しいと感じる。なぜなら、価値観は大人になるとある程度固定されてしまい、なかなかフレキシブルに変えるのが難しいから。知識や教養は努力次第でなんとかなるだろうけれど。

中学、高校、大学と、学生時代は「ある程度同じ水準の教育を、一緒に受けて育ってきた」ので、持っている知識や考え方が同じとまではいかなくても、価値観は似通っていたし、ある程度同じ方向を向いていると思う。私は、つまるところ知識や教養を持ったひとに囲まれて育ってきたし、言い方を変えれば、そういったひとと友達になるのを選んできた。

ただ、大人になるとそうはいかない。社会に出れは学んできたことなど関係がない。様々な境遇のひとがいて、様々な教育を受け、ときには自分より知識を多く持つひとや、極端に少ないひとと出会うこともある。

特に義務教育期間をどう過ごしていたのかは、その期間にそのひとのベースの価値観や教養が決まるので、大切だと考えている。義務教育での社会や歴史の勉強で、私たちの今ある生活が、ふつうではなく、過去のひとびとが頑張って作り上げてきた今ということがわかるからだ。国語では正しい言葉の使い方やひとの気持ちを慮ることを、数学では論理的思考を、理科では探求心を、芸術では表現力を、そのほかたくさんの大切なことを私たちは学ぶ。その大切な期間を、適当に過ごしてきたひととは、まず楽しいと感じるポイントが違ったり、そもそものやってはいけないことの「ボーダー」が異なる気がする。

例えば、友達がうちにくるとき、土足で家に上がろうとするひとには、当たり前に「靴を脱いで」というだろう。それは、日本の「常識」ではないからだし、私の家のルールには即していないからだ。その時に注意したにも関わらず、土足で入ってこようとするひととは、私は友達にはなれない。

私の友達の中には、どんなに暑くても靴でくる子も入れば、サンダルを履いてきて靴下を持ってきて、入り口で履く子もいる。サンダルできて、そのまま家に上がる子もいる。私は、そんな彼女たちの気遣いに気づく。それは、私がなぜ彼女たちがそうするのかを想像力を使って導き出すことができるからであり、親から礼儀という教育を受けているからこそ気づくことができた。これが知識であり、教養である。

もちろんこんな細かい気遣いができなくとも、私は対して気にしないのだけれど、そんな気遣いをする友達が誇らしいし、細やかな気遣いのできる心に尊敬感も抱く。ただ、人に押し付けはしないし望みはしない。ただ私は、そんな友達の家に行くときは、そのひとに価値観を合わせて気をつけよう、と思うのだ。

こういったことに気づけるか気づけないかは、どうやって生きてきたのかを映し出す気がしていて、私が大切にしていることでもある。

少し話がずれてしまったが、こういう価値観を持っているひととは、私はうまくやれる。ある程度の知識と教養が備わっていて、礼儀を最低限守る人とは、価値観が合うので話していて楽しい。

ただ、大人になるとその価値観が同じひとに出会うことは難しいと感じている。それに、価値観や言語レベルをすり合わせるのは労力を使うから面倒だ。

そこで、似通った価値観を持つであろうひとと会ってみるけれど、いつも気が合う訳ではないし、さっきの「土足で踏み込む」ような決定的で許すことは難しい価値観の違いを持っていることがわかることもある。そんな時に、労力を使って価値観のすり合わせを行おうと思えればいいのだが、そんな労力は仕事をやっていると残っていないし、面倒だな、と思ってしまうのだ。

だから、大人になって心の許せる友達を作るのは難しい。

コミュニケーションは双方向で、ボールを投げようとしないひとや、そもそも投げてくれたボールをとるつもりがない時には成立しない。ただ、それでもいいと思っている。付き合いたい、一緒にいたいと思えばいればいいし、この人とは合わないと思ったら、そっと距離を置けばいい。誰にだって、友達を選ぶ権利はある。私だって選ぶこともあれば、選ばれることもあるから。

私は、とりあえず両手で抱えられるくらいのひとと、深く付き合っていくのが好きで、そんな自分に満足しているので、それでいい。

まとまりがつかなくなってしまったけど、これで終わり。

フランス・パリに1年留学。ニューカレドニアで7ヶ月就労。現在は日本でOL生活。フランスが好き。フランス語勉強中。
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