10年前、2011年3月11日東日本大震災の時の、埼玉のとある女子高生の記憶

ちょうど10年前、東日本大震災だったときのことを、今さらだけれど文章化して残しておきたいと思い、覚えている限りを記録しようと思う。すでに忘れてしまっている部分やきっと記憶が書き換えられている部分もあるかもしれないし、別に東北で津波を経験したわけではないのだけれど、この先どんどん忘れていってしまうかもしれないから、今のうちに書いておきたい。メモブログ。

10年前のあの時間、私は埼玉県の家から電車で1時間弱ほどの高校にいた。高校2年生、ちょうど新校舎(だけれど、メインの校舎よりも新しく作られたから新とついているだけで、そこまで新しくない)の教室で、部活をしていた。吹奏楽部で、みんなでトロンボーンを吹いてパート練習中だった。

そして、椅子に座っていたら地震がやってきた。最初はいつもの小さなものだろうと思っていたら、突然揺れが大きくなった。一人の後輩が、「やばい、大きい」と言いながらドアを開けに席を立った。私は椅子から落ちないようにするのがやっとだった。新校舎とはいうけれど、大きく揺れていて、とても怖かったのを覚えている。あとから、私たちは5強の地震を体験したのだと知った。今まで感じたことのない、座っていられないほどの揺れだった。

地震が収まったあと、これはまずいのではないか、と思い部長の元へ。校舎の窓からは、運動部が元通りに運動を再開していて、「避難訓練など形骸的なものだ」と思ったことを覚えている。トランペットを担当していた部長は新校舎の1Fにいて、「すごい揺れだったので窓から楽器を持って逃げた」と言っていた。こんなときに楽器を持って移動するのは吹奏楽部の鏡だな、と思った記憶がある。

そんな部長に部活は続けるのか?一度集まったほうがいいのか?と聞いたが、「普通に続けよう」と言われた。校舎には、楽器の音がまた響いていた。

私たちは高校生で、ケータイはまだこの時はガラケーだった。そして、部活中は部室に荷物をほとんどおいてきているので、この時は東北があんなことになっていたなんて、これから続く日々がこんなに大変なものだったなんて思ってもみなかった。

部活をそのまま続けていると、また大きな地震がやってきた。そして、その地震の数分後、校舎に放送が流れた。

「学校に残っている生徒は、部活をただちに中止し、荷物をまとめて視聴覚室へ集合してください」

そのような旨の放送が流れ、私たちは荷物をまとめて部室へ戻った。すると、楽器や備品をおいていた倉庫が、ひどい惨状になっていた。棚の上の荷物が落ち、中くらいのドラムが床に転がっている。「楽器が上から落ちてきて、大変だったんだよ」と、部室で練習していたパーカッションのメンバーが言っていたのを覚えている。棚からものが落ちてくるほど、大変な地震だったとは思わなかった。

荷物をまとめ、視聴覚室へ向かうと、ぽつぽつと学生が集まってきていた。野球部の怖い監督が指揮をとり、私たちに「帰れる人はただちに帰宅、帰れない人はここで待つように」という指示を出した。そこで電車が止まっていることを知った。ケータイを使って連絡をしようと試みたけれど、メールを送ることはできなかった。

すこしずつすこしずつ、親が迎えに来て変える友達も出てきていて、私は友達と運よく途中まで後輩の車に乗せてもらえることになった。確かこの時点くらいで親に連絡が取れた気がする。帰りの道はもちろん渋滞で、いつもの2倍の時間をかけて、途中まで帰った。

ただ、結局私の家までは帰れず、着いた駅の近くに通っていた塾があったので、友達と一緒に一時避難させてもらうことにした。生徒はだれもおらず、なじみの先生が二人いて、コンビニで友達とおでんを買って、先生と話ながらのんきに食べていたのを覚えている。

そして、友達のお父さんが最初に迎えに来て、そのあとに近くで働いていて、仕事を終えたお父さんがきてくれた。もうその時点で確か19時くらいだった気がする。家に帰るまでも渋滞で結構時間がかかったし、お父さんの仕事の様子を聞いていても、とても大変そうだった。

家に帰ってからは、テレビを見て衝撃だった。実際に、人が乗っている車が津波で流されている様子を見た。繰り返し繰り返し、津波の映像が流れていて、それを見るたびに「イヤだ、あそこにまだ人がいる・・・!逃げて!」と今さら言っても意味のないことを高い声で言う母の声を聞きながら、この人が無事でいることを願った。

こうして長い一日を過ごした覚えがあるのだけれど、それから先の方が辛かった記憶がある。毎日毎日津波の映像を見て、毎日増える死亡者数と行方不明者数を見て、電気は計画停電で止まり、冷蔵庫の中身をどう持たせるのか、どうやって暖をとりながら寝るかを家族と話した。ぽんずもいっしょに、家族みんなでリビングにそろって夜20時以降の計画停電を過ごして、一緒の部屋で寝た。

もう10年前。ほかの記憶は大して覚えていないけれど、私はまだ、あのときの経験を断片的にだけれどこうして覚えている。これが津波で実際にすべてを流された人だったら、家族を失った人だったら、その記憶はきっともっと鮮明なんだろうと思う。日本で生活をする上で、災害は切り離せない、もはや生活の一部。次に来るときのために、備えようと思う。

フランス・パリに1年留学。ニューカレドニアで7ヶ月就労。現在は日本でOL生活。フランスが好き。フランス語勉強中。
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